3月13日―― 今日も朱莉は母親の面会に来ていた。「お母さん、今日はネイビーの写真を持ってきたよ」朱莉はスマホで撮影したネイビーの写真を母に楽しそうに見せた。「あら、本当に可愛いわね。絵本のピーターラビットを思い出すわ」洋子は目を細めて写真を眺めている。結局、洋子は翔と朱莉、そして明日香の関係を尋ねる事は無かった。それは母の気遣いであることは痛いほど朱莉には分かっていた。だけど真実を母に告げる事等朱莉には出来ない。だから今は母のあえて何も聞かないという優しさに甘えていたいと朱莉は思うのだった。(ごめんね。お母さん……いずれ話せる時が来た時は全て話すから)朱莉はそのとき、ふとテーブルの上に琢磨が母にとプレゼントしてくれたマグカップに気が付いた。「お母さん、そのマグカップ使っているんだね」「ええ、デザインも素敵だし大きさも、持ちやすさも丁度良いのよ。確かお名前は……九条さんだったかしら? センスがある素敵な男性よね?」洋子はニコリと笑う。「そ、そうだね……」(お母さん、どうしちゃったんだろう? いつも九条さんの話になるとすごく褒めるけど……)「ねえ。朱莉は九条さんのような男性、どう思う?」洋子は意味深な質問をしてきた。「え……? 九条さんのこと?」朱莉は今迄の琢磨の行動を思い出してみた。もっとも最近は会う事も無く、最後に会ったのもこの病棟の中である。「う~ん。すごく仕事が出来て……気配りも出来る男性……かな?」「あら? それだけなの?」何故か残念そうに言う洋子に朱莉は首を傾げた。「う、うん……。そうだけど?」「そう……分かったわ。ところで朱莉、もう帰った方がいいんじないの? 通信教育のレポートの課題がまだ残ってるんでしょう?」「う、うん。そうなんだけど……」「私のことなら大丈夫だから、早く帰ってレポート仕上げなさい。単位が貰えないと大変なんでしょう?」朱莉は母親の提案に従うことにした。「うん。それじゃ、今日はもう帰るね」立ち上がって、コートを羽織る朱莉に洋子は声をかけた「朱莉、明日は特別な日になるといいわね?」「え? 何のこと?」朱莉には母が言っている話が理解出来なかった。「フフフ……なんでもないわ。それじゃ気を付けて帰るのよ?」「うん、それじゃまたね。お母さん」**** 病院を出たのは18時だった
その頃、琢磨と翔は仕事の合間の小休憩していた。「翔、明日はホワイト・デーだ。しかも週末。何か予定は立てているのか?」ブルーマウンテンを飲みながら琢磨が尋ねた。「勿論だ。フランス料理のレストランを予約してあるんだ。そこへ行く」翔はカフェ・ラテを飲みながら答えた。「……何人で行くつもりだ?」「え? 2人で行くに決まっているだろう?」「それって……明日香ちゃんとか?」何故かイライラした口調の琢磨。「勿論だ。え? もしかして朱莉さんも誘えってことか?」「朱莉さんはどうするんだよ? お前手編みのマフラー貰ってるよな?」「彼女にはギフトとして若い女性に人気のスイーツを買ってある。明日自宅に届くように配達を頼んでいる所だ」翔の無神経な言葉に琢磨はつい声を荒げてしまった。「おい、翔! 何処の世界にホワイト・デーのお返しをお中元やお歳暮じゃあるまいし郵送する奴がいるんだ? しかも朱莉さんはお前達のすぐ真上の階に住んでるじゃないか! 直接届けて顔を見せてあげようとかは思わないのか?」「何を言ってるんだよ、琢磨。明日香の手前、そんなことが出来ないのは知ってるだろう? それに彼女が俺にマフラーを編んでくれたのも一応書類上は俺の妻になってるからだ。その役目を果たそうと編んでくれたんだろう? 第一俺と朱莉さんは契約婚で、そこに何らかの感情が伴っている訳でも無いのだから」翔の言葉に琢磨は呆れてしまった。(はあ? 翔の奴、本気でそんな風に思っていたのか? あれ程朱莉さんに好意を寄せられてるってことに全く気が付いていないって言うのか? 信じられない……これでは、あまりに朱莉さんが気の毒過ぎる!)だからつい、余計な事と思いつつ琢磨は口にしてしまった。「だったら……だったら何故、俺に朱莉さんへのホワイト・デーのお返しを渡すのを頼まなかったんだ?」「は?」翔がぽかんとした顔で琢磨を見た。そして琢磨も今の発言に自分自身で驚いていた。(え……? お、俺は今一体何を言ってしまったんだ?)考えてみればおかしな話である。第三者がホワイト・デーのお返しを渡すなんて、世間一般では考えられない話だ。「わ、悪い。今の話は忘れてくれ。……どうかしていたよ……」琢磨は再びコーヒーに口を付けた。「琢磨は朱莉さんからバレンタインに何か貰ったのか?」「ああ。貰った」「へえ~何を
――3月14日金曜日 朱莉が部屋で課題のレポートを仕上げた頃、個人用スマホが鳴った。(誰からだろう……? 九条さんかな?)スマホをタップし、驚いた。何と相手は京極からだったのだ。『こんにちは、朱莉さん。実は昨日からマロンの具合があまり良くありません。これから獣医へ連れて行くところですが、良かったら一緒に獣医の所へついて来て貰えますか? 朱莉さんからマロンを引き取る前の話も出来れば病院で教えて貰いたいので。でもどうしても都合がつかなければ、無理にとは言いません』「え……! マロンが……?」マロンに会っていいものかどうか、朱莉は一瞬迷った。だが、元々は朱莉が飼い主。マロンが心配な気持ちに変わりない。時計を見ると16時になろうとしている。母には悪いが今日の面会は無理だろう。朱莉はすぐに母親の入院先の病院へ電話を入れて、面会に今日は行けそうに無い旨を言伝して貰うことにした。その後、京極にメッセージを送った。『はい、勿論大丈夫です。何時に何処で待ち合わせをすればよろしいでしょうか?』**** 京極が指定して来たのはドッグランだった。朱莉は気が急く思いで待っていると、キャリーバックにマロンを入れた京極がやって来た。「朱莉さん、お待たせしてすみません」「いえ……。それでマロンの様子は……?」朱莉はキャリーバックの中を覗くと、マロンがぐったりした様子で眠っている。「マロン……!」朱莉は悲痛な声を上げた。「朱莉さん。今からこちらに車を回してくるので、マロンを連れてここでお待ちいただけますか?」「はい、勿論です。よろしくお願いします」京極は頷くと小走りに駐車場へと向かって行った。それからものの5分程で、朱莉の前に1台のベンツがやってきて止まると運転席のドアが開き、京極が下りてきた。「朱莉さん、乗って下さい」「はい」朱莉は後部座席に乗り込んだ。「朱莉さん、助手席に乗らなくて良いのですか?」京極は朱莉を振り返りながら質問した。「はい、マロンの様子を見たいので後部座席に座らせて下さい」「分かりました。それじゃ出発しますね」京極はハンドルを握ると、アクセルを踏んだ――**** 京極の話では昨日から少しマロンの食欲が落ちて、元気があまりなかったと言う。そして今日になり、下痢や嘔吐、発熱の症状が起こったそうだ。「本当にすみません……
「朱莉さん。もしよければ何処かで食事をして帰りませんか? この近くに美味しいイタリアンの店があるんですよ。お詫びにご馳走させて下さい」病院を出ると、京極が朱莉を食事に誘ってきた。「お詫びなんて言わないで下さい。マロンの病気は京極さんのせいではありませんから」すると……。「お詫びなんてただの口実です。朱莉さん。僕は貴女に色々聞きたいことがあるんです。どうか僕の為に朱莉さんの時間を分けて貰えませんか?」京極がいつになく真剣な目で朱莉を見つめている。「き、聞きたいこと……?」朱莉は口元を震わせ、京極は慌てた。「い、いえ! 決して朱莉さんを尋問しようとかそんなつもりはなく……ただ、色々とお話しできればと思っただけなので。答えたくなければ答えなくて結構ですから。ただ朱莉さんと話がしたいだけなんです」京極にはマロンを預かって貰った恩がある。だから彼の誘いを無下にすることは出来なかった。「分かりました。食事……御一緒させて下さい……」躊躇いがちに朱莉は返事をすると、京極が笑顔になる。「良かった……。ありがとうございます、朱莉さん」その笑顔は子供のように無邪気だった――**** 京極が連れて来てくれたイタリアンレストランは堅苦しい雰囲気が一切無く、カジュアルなイメージで料理もバリエーションに富み、美味しかった。 特にデザートのパンナコッタはとても朱莉の好みの味だった。 お店を出て、助手席に乗ると朱莉は嬉しそうにお礼を述べた。「京極さん、今夜は素敵なお店に連れて来て下さり、本当にありがとうございました。イタリアン料理とても美味しかったです」すると京極は笑顔になる。「こんなに朱莉さんに喜んでもらえるとは思いませんでした。てっきり今夜は断られてしまうかと思って、強引にお誘いしてしまったのですが……無理にお誘いした甲斐がありました。これで少し安心出来ましたよ」「え……? それは一体どういう意味ですか?」(今の京極さんの台詞……すごく意味深に取れるのだけど……気のせいかな?)すると、朱莉の質問に答える前に京極が言った。「ああ……あそこにいるのはやはり……」「え?」気づいてみると、そこはもう億ションのエントランスの前だった。そしてエントランスに設置してある椅子に人影がある。朱莉は驚きで目を見開いた。「あ、あの人は……京極さん! 車を止めて
季節は流れ、早い物で明日からゴールデンウィークに入ろうとしていた。あの3月14日のホワイト・デーの夜。琢磨は人生で最も屈辱的な気持ちを味わい、それ以来朱莉と会うことも、連絡を取り合う事もすっかり無くなっていた。尤も朱莉と連絡を取り合う事が無くなった理由の一番の要因は、翔と朱莉が直接連絡を取り合うようになっていたからだ。2人が連絡を取り合えるようになった理由は明日香の方も最近は朱莉との連絡に対して翔や朱莉に文句を言うことが無くなったからである。これも偏にカウンセラーのお陰ともいえる。「それで明日から明日香ちゃんと旅行に行くって言う訳か。何所へ行くんだっけ?」昼の休憩時間、琢磨はケバブサンドを食べながら翔に尋ねた。「明日香の希望で沖縄と与論島に行くことにしたんだ」翔はキーマカレーを食べながら答えた。「珍しいな……いつもなら毎年大体海外に行っているだろう? 一体何があったんだ?」「いや、実は……明日香に子供がまた出来たんだ……」照れる翔に対し、驚く琢磨。「何だって!? 朱莉さんはそのことを知ってるのか!?」琢磨は険しい顔つきで尋ねた。「いや、まだだが? 実は今夜、報告しようと思ってるんだ」「そうか……今回は大丈夫なんだろうな?」「もう明日香は精神も大分安定してきたし、3カ月以上精神安定剤を服用もしていない。だから今度こそ間違いはない……だろう」翔はためらいながらも断言した。「大体、明日香ちゃんが子供を産むのはまだ無理だと以前お前は言っていたじゃないか? それがどういう風の吹き回しなんだ? 今は子供の誕生を何だか待ち望んでいるようにも聞こえるぞ?」食事を終えた琢磨はコーヒーを飲みながら首を傾げる。「実は……それなんだが……」翔が言いよどむ。「何だよ、はっきり言えよ」「そうだよな、隠していてもしようがない。実は祖父から言われていたんだ」「言われていたって……何を?」「その……いつになったらひ孫の顔が見れるんだ? って……」ひ孫の顔……。その言葉にピクリと琢磨は反応する。「だから、今回明日香が再び妊娠したのは丁度タイミングが良いと言うか……」「おい、翔。それで明日香ちゃんの妊娠中はどうするんだ? ずっとあの億ションんに住んでるのか? それに朱莉さんはどうする? お前の計画では明日香ちゃんが妊娠した場合は朱莉さんにも妊婦の
だが、琢磨にも責任はある。そこで自分の考えを述べることにした。「俺だったら……。明日香ちゃんと朱莉さんをここから別の場所に移して、出産するまではそこで暮らしてもらうかな……。妊娠中は別の場所で過ごすって形を取れば、わざわざ朱莉さんにしたって妊婦の恰好をする必要は無いんだからな」自分で言っておきながら、琢磨は胸を痛めていた。(俺は最低だ……。明日香ちゃんが産む子供を、あたかも朱莉さんが出産するように見せかけるためにこんな手段を考えつくなんて……)しかし、当の翔は琢磨の心情を知ってか知らずか納得して頷く。「うん、そうだな。それが最もいい方法かもしれない。何所か明日香が妊娠期間中、穏やかに暮らせるような場所を探すことにしよう。出来れば朱莉さんにも明日香の妊娠期間中は近くに住んでもらって……」もう翔は自分の中で計画を立て始めていた。「おい……お前、まさか……朱莉さんと明日香ちゃんを同じ家に住まわせるつもりか?」「駄目か?」「駄目だ! いくら何でもそれだけはこの俺が許さないぞ! 大体良く言われてるじゃないか。妊娠期間中はホルモンバランスが崩れてイライラしやすくなるとか。その苛立ちを明日香ちゃんが朱莉さんにぶつけたらどうするんだ? せめて近所でも構わないから一緒には暮らさせるな。明日香ちゃんの面倒なら家政婦を現地で雇えばいいだろう?」喚きながら琢磨は心の中で自分自身をなじっていた。(くそ! こうやって俺は明日香ちゃんと翔の片棒を担いでいくことになるのか? これじゃますます朱莉さんとの距離が離れていってしまう……!)翔は琢磨の顔色が悪いことに気が付いた。「大丈夫か琢磨。何だか随分顔色が悪いようだが?」「い、いや。何でもない。俺のことは気にするな。朱莉さんに明日香ちゃんの妊娠を告げるときは……翔、お前から告げてやれよ」琢磨は翔の肩にポンと手を置いた。「分かったよ」「さて、それじゃ仕事を再開するか」琢磨は立ち上がると自分のデスクに向かい、PCの操作を始めた――**** その日の夜――朱莉がお風呂からあがってくると、翔との連絡用スマホにメッセージが届いていることに気が付いた。「あ、翔先輩からだ」朱莉の顔に自然と笑みが浮かぶ。翔とのメッセージのやり取りはいつも業務連絡のように単調なものだったが、それすらも朱莉にとっては嬉しかった。(
—―翌朝 朱莉は憂鬱な気持ちでカーテンを開けた。窓からは眩しい太陽の光が差し込んでくる。今日からゴールデンウィークに入るが、朱莉には特に重要な予定は入っていなかった。京極からは何度かゴールデンウィークに何処かへ出掛けようとの誘いのメッセージが入っていたが、朱莉はそれら全てをやんわりと断っていた。やはり書類上とはいえ、朱莉はこれでも人妻だ。当然京極もそれを承知の上なのに、何故朱莉に誘いをかけてくるのか、謎であったし、世間の目も気になった。それに何より契約婚を交わした時の書類には浮気は一切しないようにと書かれている。別に朱莉は京極に恋愛感情を持っている訳では無いが、一緒に出掛けたりすれば当然周囲の目から疑いの目で見られるのは分かり切っていたし、何より京極に迷惑をかけてしまいそうだったからだ。「私みたいに面倒な人間じゃなくて、もっと普通の女性を誘えばいいのに」朱莉はネイビーに水と餌を与えながら思わずポツリと呟いていた。それに京極からの誘いを断って来た理由はそれでけではない。「九条さん……」あのホワイト・デーの夜…まだうすら寒い外でコートの襟を立てて自分を待ってくれていた琢磨。そしてホワイト・デーのお礼として紙バックを渡してきた時のあの悲しそうな顔が目に焼き付いて、今も離れなかった。あの目は……どういう意味だったのだろう……。****「翔! ほら、早く! そろそろタクシーが来る時間よ!」明日香が大きなキャリーバックを前に億ションのエントランス付近で声をかけている。「ああ、分かった。今行くよ」翔は笑顔でキャリーケースを引っ張って出口に向かおうとした時、突然背後から声をかけられた。「おはようございます、旅行にでも行かれるのですか?」振り向くと、そこに立っていたのは2匹の犬を連れた京極であった。彼は険しい顔で翔と明日香を交互に見つめた。「え、ええ……ちょと……」翔は俯きながら返事をした。(まずい相手に会ってしまったな…)「ええ、そうよ。私達、これから沖縄へ行くのよ。そろそろ迎えのタクシーが来る頃だから邪魔しないでいただける?」明日香はゆったりした真っ赤なワンピースを揺らせながら口を挟んできた。「旅行はお2人だけで行かれるのですか?」京極は鋭い目つきで翔を見る。「……」翔が返事に困っているとまたもや明日香が言った。「ええ。そうよ。
—―同時刻 琢磨は食後のコーヒを飲みながらインターネットで検索をしていた。明日香と翔が沖縄旅行から戻ってくる前に、明日香が出産をする為に適した環境の地域を検索していたのだ。「医療設備も充実していて……温暖な気候……何処か良い地方都市は無いかな……」本来なら、明日香の為にこんな事をしてやる義理は琢磨には一切無い。今こうして検索してどこかの地方都市を探しているのは全ては朱莉の為であった。明日香のお腹が目立ってくる前に、2人をあの場所から離さなくてはならない。かといってそれぞれを全く別の土地に置くことも出来ない。いざという時の為に明日香の妊娠期間をどのように過ごしていたのかを朱莉が知っておく必要が出てくるかもしれないからだ。何せ、朱莉が出産したように世間を偽る必要があるからだ。「後は口が堅い病院を探さなければな……」偽証罪になってしまうのかもしれないが、明日香の出産記録を朱莉の記録に変えてもらわなければならないのだから、誰にも絶対に口外しない医者を探し出す必要がある。最悪、海外で明日香に出産させるという選択肢もあるが……出来れば日本で出産させたい。「ふう~」琢磨はパソコンの前で伸びをすると時計を見た。時刻は午前10時を過ぎた所である。恐らくもう翔と明日香は沖縄旅行へ出発しているはずだ。(朱莉さんは2人がゴールデンウィークの間、沖縄旅行へ行くことを知ってるのだろうか……?)琢磨は目をつぶると朱莉のことを思うのだった—―****「それじゃ、ネイビー。出掛けて来るからお利口にしていてね」朱莉はサークルの中に入っているネイビーの頭を撫で。朱莉は先月から教習所に通っていた。免許を取れば、1人で好きな場所へ行くことが出来る。それに母を乗せて買い物に連れて行ってあげることだって出来るのだ。「少しでも早く免許を取れるように頑張らなくちゃね」独り言を言いながらエレベーターに乗り込む朱莉。やがてエレベータは1階に止まり、エレベーターホールから降りると偶然京極に鉢合わせした。「「あ」」2人で同時に声を上げ……朱莉はすぐに頭を下げた。「こんにちは、京極さん」「こんにちは。朱莉さん。ああ……やはりこちらに残ってらしたんですね」「え? それはどういう意味でしょうか?」朱莉は顔を上げて京極を見た。「いえ。何でもありません。ところで朱莉さん。何処かへお
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう